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色とこころの勉強を通して、わたしが思う「こころ」がテーマのブログ。
おじいちゃんの話
子供より孫の方が、霊線が強いというような話を聞いたことがある。
祖父母と孫の関係は、親子のようにしつけをきちんとしなければいけないという責任感がないから、
皆「かわいい、かわいい」とあんなにかわいがるんだろうと思っていたが、
もし、霊線が子供より孫の方が強いなら「なるほど」と思ってしまう。

私は父方の祖父母と一緒に暮らしていた。
母は結婚してあまり里帰りをしなかったので、母方の祖父母とは幼少期には
あまり思い出がない。

うちのおばあさんは、障子の影から片目だけで覗いているような陰気な人で、
「自分も嫁姑でいじめられたから」とそれはそれは陰湿にお母さんをいびり、
後に聞いた話では、服や下着など買ってきていると全て切り刻まれたり、
ヒステリー症をいつも隠しているが、台所で二人になると大声で怒鳴られながら
色々投げつけられたりしたそうだ。

私もおやつを盗まれたり、部屋を覗かれたりしたりしていたし、
現場を見ていなくても、お母さんをいじめているのは分かったので、子供の頃は大嫌いだった。
「姥捨て山」を読んだ後は、どこにその山があるのか本気で知りたかった位に
本当に嫌いだった。

兄は未だに他の家族はいいけど、おばあさんとだけは一緒の墓に入りたくないと言う。

その分、おじいちゃんが良かった。
昔はお見合い結婚だが、よりによって何故こんな人と結婚する羽目になったんだろう?
絶対おばあさんとは性格は合わないだろう!と幼い頃から思っていた。

実際におじいちゃんがおばあちゃんを若い時から、押さえ込んでいたらしく、
年をとっておじいちゃんが寝たきりになってからは、「恨みをはらすんじゃ」と
馬乗りになって、おばあさんがおじいちゃんの顔や頭をグーで殴りつけていたこともあった。
大声で怒っておじいちゃんをかばったら、おじいちゃんの目から涙が流れたことを覚えている。

そのおばあさんが苦手だった分、私は「おじいちゃん子」だった。
おじいちゃんは、ファンの大泉洋さんと同じ「洋」と書いて「ひろし」と読む。

おじいちゃんは、お父さんの下に生まれた女の子を3人、5歳になる前に次々と亡くしている。
お父さんには姉がいるのだが、その娘2人のうち最初の女の子は「白血病」になり、
亡くなってしまった。

そんな事情もあった上に、私も生まれつき体が弱く、高熱を出しては寝込んでいたり、
予防接種をすれば入院するような子だったのもあってか、本当に目に入れても痛くないと
いうようにかわいがってくれた。

お母さんは、私が生まれてすぐ働きだしたし、兼業農家だった我が家は、両親とも
勤めが終わって帰ってきても、すぐに畑や田んぼに行っていて、忙しかった。
その分、いつもおじいちゃんと一緒にいた。
また、保育園も、体が弱かったからか、いじめられてたからか覚えてないが、やめたので
いつも「ニコイチ」でおじいちゃんと過ごしていた。

絵本を一人で読んでいない時は、おじいちゃんの趣味で凝って創り上げていた日本庭園の
松の剪定をするのを見ていたり、これまた趣味の骨董品を磨くのを手伝ってみたり、
後は時代劇「遠山の金さん」「大江戸捜査網」「大岡越前」「江戸を斬る」などなどを見たり、
将棋や碁並べをしたり、一緒に駄菓子屋に行ったりした思い出がある。

農業が大嫌いで、町議会の議員を何期もしていたおじいちゃんだったのだが、
いつも髪は天然パーマでくるくる、そしてボロっちい着物をいつも着ていた。
そんなに普段は、ダラダラの格好をしているのに、「ザ・昭和」という感じだが、
買い物に行くと「この店で一番いいものを持ってこい」と言って、請求書は家族にまわして
自分は商品を持って帰るような人だったので、持ち物は良いものを持っていたらしい。

でもその「ザ・昭和」の豪快さで、一度、駄菓子屋でくじで一等賞のあめの指輪が欲しくて
いつも1枚とか2枚くじを買っては「あーあー、またはずれた」と言っていたら、
大人買いというのか、残り全てをまとめて買って「ほれ」とその指輪を渡された時は、
「そうじゃない。」と私が大泣きしてしまい、
「これが欲しい言うたんじゃねんか~。じいちゃんが悪かったからもう泣かんでくれ~」
とおろおろと申し訳なさそうに、返品していたのを覚えている。

そんなおじいちゃんだった。

でも、幼少期いつも発熱しては寝ているわけだから、スポーツは出来ないし、
学校に体調悪くあまり行ってないから、勉強はできないし、
唯一オルガンがすきで、勝手に曲を作っては即興で歌詞も作って唄って楽しくしていたが
習い事を近所の子がし出したからあんたも・・・とピアノを買われ、オルガンを処分され、
この楽譜通りに弾きなさい。先生の言うとおりにしなさい。と母に言われ
すっかりおもしろくなくなってしまった。

母は自分がコンプレックスだったのか、近所の子と見劣りしないように私を育てようと
思ったのかは不明だが、小学校に入ると、お花、そろばん、習字、英語etc...と
習い事が増えていった。
すぐやめたものもあるが、母に辞めさせてもらえず行っていたものもあった。
続けていたのは、近所の子も行っていたので、何かあるたびに比較されていた。
(全て私が劣っていたのだが・・・)

また、父には、何でもできるお兄ちゃんと比較され
「お兄ちゃんは、家で勉強せんでもできるし、遊んどってもできるんじゃ。
でも、お前は人の3倍努力して、一人前じゃから、他人以上に努力せにゃいけん」

と、両親からは「ダメダシ」の嵐だったの上に。体が弱くて困るとよく言われていたが、
おじいちゃんは、そんな事は全部おかまいで、私という存在を愛してくれた人だった。

幼少期、おじいちゃんは私の逃げ場だった。
そんな「ダメダシ」をされている上に、両親には学校でいじめられているなんて
絶対口が裂けても言えなかったし、私は劣等感の固まりみたいな自信のない子だった。
何も言わなくても、おじいちゃんのそばにいるだけでほっとできた。

私は小学校入るとすぐに、変な和室に一人で寝させられるようになった。
般若面があったり、鷲が獲物を狙っている掛け軸があったり、
透明な四角の箱に入った、着物の人形やドレスを着た人形があったり、
母の嫁入り道具の箪笥があり、そのガラス棚に、大量のおみやげの人形が入っていて、
それはそれは怖い部屋だった。

そして我が家は何代か前のご先祖様が裕福だった名残で、2つ蔵があったのだが、
その一つの蔵が隣の部屋だった。今でも気持ち悪いが、その頃はおばけがいると
本気で信じていた。

嫌で何度も両親に訴えたが一緒に寝てくれず、よくこそっと抜け出しては
おじいちゃんの部屋に行き、布団に潜り込んでいた。
後で思うと、おばあさんが母に言っていたのだろうが、次の日には母にばれ
怒られるのだが、おじいちゃんの布団にもぐるとぎゅっと抱きしめてくれ、
何とも優しさに包まれて安心できたのを覚えている。

そして、母も言っていたが、私もおじいちゃんが声を荒げて怒っているのを
一度も聞いたことがない。
決して気が長い人ではなかったような気がするが、感情的になって怒るということは見た事がない。

だからこそ、安心できたのかもしれない。

家族は、どうしても期待を相手にしてしまうし、要望や批判も多くなりがちだ。
それも、もちろん「愛」があるからだという事は分かっている。
でも、そんな中、期待もなく、ただただ生きているわたし自身を肯定し、
すっぽり包んでくれる人がいたという事実は、私のその後の人生において大きな宝だと思う。

一度実家に帰って、おじいちゃんが亡くなるまで一緒に暮らせてよかったと思う。
おじいちゃんの訃報を聞いて、車を飛ばして帰っていたら、スピード違反で捕まり
一発免停になり、それをきっかけに家を出て一人暮らしを始めたのだが、
何故か、私は何度家を出ても、不思議と誰かが調子悪くなる前に実家に帰ることになり、
あの時、一緒に暮らせていてよかったと、後で思う事が多い。
流れなのかもしれない。

おじいちゃん、本当にありがとう。
私はおじいちゃんの元に生まれ、とても感謝しています。

量子力学においては、過去と現在は直線ではなく、両方一緒に存在しているらしい。
過去の中でもおじいちゃんは私の中の現在にも生きていて、
そして大好きな気持ちは過去も現在も同じだしね。

おじいちゃんは形があっても、なくても、すごく私を大切にしてくれてるのが分かる。
たまに置いた場所わかんなくなって、おじいちゃんに尋ねると教えてくれてありがとう。

そちらの世界はどうですか?
13回忌を越してちょっとは、そちらでの生活に変化がありましたか?
おじいちゃんが幸せで、いつものにこ~っとした顔でいてくれたら、私も幸せです。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。



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