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色とこころの勉強を通して、わたしが思う「こころ」がテーマのブログ。
小野田寛郎さんの話③
前回までは、小野田寛郎さんの生い立ち、そして貿易会社での中国での青春時代、
徴兵され、陸軍中野学校での訓練を経て、フィリピンのルバング島に着任して
数年たった所までの話をしました。

今日はそのルバング島での生活の続きです。
小野田さんは陸軍中野学校で、司令部の人しか知らない情報を全て知り、
日本はアメリカ軍の上陸される事を織り込み済みの上で、
2~3年は無理だけど、準備期間を経て5年ほどしたら、
反撃をすると聞いていました。

そして、その5年後の昭和25年(1950年)6月、朝鮮戦争がはじまりました。
ルバング島からは、マニラ湾に出入りするアメリカの艦船や
上空を飛ぶ飛行機がよく見えました。
それを見て、小野田さんは、太平洋戦争はまだ続いていると確信します。

小野田さん達の存在は知られるようになり、昭和29年(1954年)5月
フィリピン軍の討伐隊との銃撃戦で、41歳になった島田庄一伍長が死亡します。

フィリピン軍からの情報で、小野田さんと小塚一等兵がまだ生きている事を知った
日本政府は捜索隊を派遣しますが、これも敵の謀略と判断して姿を隠します。

6年後の昭和35年(1960年)12月、小野田さん37歳の時、葬式を行われました。
日本政府は、数度の捜索で発見できなかったことで、
小野田さんの死亡を発表して、捜索を打ち切ります。

なぜその捜索の時に出てこなかったのかという事を聞いた時、
小野田さんたちが出てこないのは、現地の住民に恨みを買い、
報復を恐れていると思い込んでいた政府の口ばかりのやり口が、
小野田さんたちは臆病者と思われていると感情を
逆に逆なでしてしまったと言います。

そして、任務解除の命令が、直接上官から下されない限り
戦い続けるしかないと、誰も足を踏み入れないジャングルの中で
息をひそめる小野田さんと、小塚金七一等兵は
極限状態の中で二人は衝突しながらも生き抜きます。

ケンカは当然あったけれど、本当にダメになることはなかった。
なぜなら、それははっきりとした目的があるから。
何の為に自分はここで生きているのか。
その生きる目的がしっかりとしているから

喧嘩して仲間が失う事と弱くなることは目に見えていますから、
生きていくためには強くなければいけないんですから。

だから、もう夫婦喧嘩と一緒ですよ。
別れるための喧嘩なら簡単にできるんですよ。
別れない喧嘩をしなければ困るんですよね。

根本に「別れない」というはっきりしたものがあればいいけど
それを見失うと、喧嘩に花が咲き、「売り言葉に買い言葉」に
なってしまいます。」

「日本が盛り返す為に、自分たちは「やります」と言ってきているのに
 できなかったら、自分としては「名折れ」ですからね

「負けん気」が強いんですよね~。」

「家族を思い出したり、望郷の念にさいなまれたことは、ないんですよね。
17歳で家を飛び出すような男だからないんですかね。
それから、思ってみても何ともなんないでね。
現実の思いの方が強かった。


体力的にも計画では、自分たちは60歳だろう。
60歳までは弾が不足しないように。
60過ぎたらどうするか。生きられないなら、その島で死ぬしかない。

その時にはとっておきの一番いい服を着て、持ってる弾全部打って
仁王立ちになったら、自動小銃でハチの巣に開けてくれるから、
我々はそれでおしまいにしような!と話していた。
始めから、それは覚悟してました。

面白いといえば面白いですね。
おしまいそうだってこと分かりながら、
今を一生懸命生きてるんですからね~。
、」

敗戦から復興し、1950年代から高度成長を始めた日本。
やがて消費とレジャーの時代を迎えます。
昭和39年(1964年)10月、東京オリンピック開催。
かつては戦場に向かう学生が行進した神宮外苑を
日本とアメリカの選手が共に行進し、スポーツで競い合いました。
敗戦から19年がたち、小野田さんは42歳になっていました。

ルバング島では、捜索隊が残していった新聞や、
島民から盗んだラジオで情報を得ていました。

それでも日本はアメリカに占領されて、傀儡政権ができていると、
皆復興したとか、平和と言っているが、それはアメリカに負けた国、
僕とは関係のない国。
その国は傀儡政権で操られている国で、
本当の日本という国は盛り返してくる。
それが自分の正当な理由と言います。

昭和47年(1972年)10月19日。
フィリピン軍との戦闘で、27年間行動をともにした、
小塚一等兵が死亡します。
ついに、小野田さんは一人になります。

[たった一人になった時、自分を守るための警戒や戦術から
行動計画をすべて変えないといけないから、大変でした。
二人でいた時が満点じゃなかったと、マイナス点を考え、
自分ひとりになった時のプラス点をあげて、
両方並べてみて、プラスマイナス、そんなにいわゆるマイナスじゃない。
根本的にはマイナスなんですよね。原則的にはマイナスなんだけど、
自分の「一人になったから半分になった」という直観的なものではなく、
いくらか弱くなっただけで、半分じゃない。
と自分に言い聞かせないと、明日から自分がいきていけないんですよね。


最初はアメリカ軍でしたが、途中からフィリピンの軍隊の討伐隊と
230回の戦闘をしたと言います。

ウィキペディアによると、
「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)
真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)
撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)
相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」

本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、
頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、
直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、
あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。
「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。
そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まで
はっきり認識することができました。
そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。
それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして
銃弾を避けることさえできると思いました」 。
命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だった

というエピソードも紹介されています。

自由主義、民主主義だった小野田さんが、戦友とともに、
またその戦友を失くし、孤軍になっても一人で戦います。
壮絶ともいえる戦いであり、その時のことを振り返ると、
「銃で撃ってくる相手に、自分の身を守るためには、撃つのを遠慮できない。」
という話をしていましたが、その当時のルバング島では
村で悪いことや、事件、人が死ぬようなことがあれば、
それらは全て小野田さんたちのせいになっていて、
住民たちにも、とても怨まれていたといいます。

そんな中でも、独りで戦うのです。

小塚一等兵が亡くなった時に、プラスマイナスをあげていったという話を
していましたが、本当にその時の心情を慮ると、あまりに深い悲しみに
あふれ、そして絶望と背中合わせだったのであろうと思います。

父との確執があった小野田さんですが、島田伍長、またこの小塚一等兵とは
家族のような、もしかしたら本当の家族以上に愛情と絆があったように
思えます。

そう思うと、両親とうまくいかない人や、親との縁が薄い人、
親だからといって愛情の念をもてない人もいますが、
だからといって、自分は愛情が薄いとか、自暴自棄にならなくても
型はどうあれ、他人であっても深い愛情や
絆を結ぶこともでき、それは家族以上にできるということを知ることができます。

いつでも死ぬ覚悟をもって、今を精いっぱい生き抜く事を
この苛酷で壮絶な環境の中、やりぬいた小野田さんはすごいと思います。

また、「目的」と「生きる理由」がある人間は強いですね。

自分の人生を受け入れ、その中で自分を分析し、自分を知り、
どんな状況の中でも、生きることをあきらめず、
立ち向かう姿は、本当に心を打つものだと感じます。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。



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