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色とこころの勉強を通して、わたしが思う「こころ」がテーマのブログ。
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「大切なものはなんですか?」の話
人は「ないもの探し」がとても上手な生き物だと思います。

体調が悪い時には、健康があればどんなに幸せだろうと思い、
健康になれば、他に自分にないものを探します。

例えば、仕事、恋人、結婚、経済、家族etc...
そして、それを手に入れたら、また他のものがないと思い、
手に入れたものは当たり前のものとなり、足りない足りないと欲します。

その欲する事が、エネルギーになり、
明日への活力にもつながればいいですが、
ここに幸せがあるのに、それを気づけず、
不幸だと思い、あれがあると幸せとずっと探し続けるような人をみると
また、だれかに幸せを与えてもらえると信じている人をみると、
しんどそうだな~と思ってしまいます。

それだけ恵まれているのに、なぜそんなに不満ばかり?と
思うような人もいます。

でも、当たり前と思っていたものを失ったときに、
はじめて、自分がどれほど幸せだったのかを、
実感する人もいるのだろうと思います。

そう考えると、色んなものが揃っていて、
環境が整いすぎている事は、結構不幸なことかもしれません。
(それに気づける感性の不足している人にとっては・・・ですが)

あるのが当たり前で、ない状態を経験していなかったり、努力をしらない人は
その分それを手にしたことへの幸せ感がとても薄いともいえます。

元々ない状態が当たり前だった人にとっては、
何かをずっと欲しくて一生懸命それを手に入れるために努力して
手にした時の達成感と満足感は感じられませんし、
ありがたさや感謝の気持ちも持てないような気がします。

そう思うと、不幸を経験した人の方が、幸福も大きくなるのかもしれません。

最近私の周りでは、たくさんのものを持っている人ほど、
自分の足元にはありとあらゆるものが揃っているのに、
足元を見ず「足りない!足りない!」を横と比べ、上をみて
大切なものを見失い、欲しい欲しいと探し求めています。

どれだけ、経済的に裕福で、恵まれた環境の中にいても、
その人自身は、スッカスカの「乞食」のようです。

ふと足元に目をやると、そこには大切なものがあるのに・・・

久々に「NYのリハビリセンターの壁に書かれた言葉」を思い出しました。

「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

 より偉大なことができるように健康を求めたのに、
 より良きことができるようにと病弱を与えられた。

 幸せになろうとして富を求めたのに、
 賢明であるようにと貧困を授かった。

 世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
 得意にならぬようにと失敗を授かった。

 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
 あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

 求めたものは一つとして与えられなかったが、
 願いはすべて聞きとどけられた。

 神の意にそわぬ者であるにかかわらず、
 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」

素敵な言葉だと思います。

恵まれた環境や、ものがある事はいいことです。
そのことに対して、ありがたいと感謝できる感性をもって、
ないもの探しだけではなく、あるものにも目をやる事を忘れず、
地に足をつけ、自分が満たされていることに気づいて
その上で生きていきたいものです。

読んでいただいてありがとうございます。
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巡り合いの話
最近、東京都議会の一般質問で、みんなの党の塩村文夏議員が
子育て支援等に関する質問中に性差別的なヤジを受けた事に対して
毎日報道がされています。

人それぞれ考え方はあると思います。

私は、「永田町の常識は国民の非常識」という言葉が浮かびました。
人は生きていくうえで、自分というものを創り上げる過程で
色んな人、そして環境などの影響を受けます。

生まれてすぐは家族や身の回りの世話をしてくれる人。
そして近所の人や、その生まれた地域での常識。
その後、進学する学校や、その時に出会う人たち。
そして、友達になった人。
大人になってからは、仕事の環境や、その仕事での人間関係、
また仕事を持たず、育児に専念している人は、子供関係の人間関係、
などなど・・・
自分の考え方、物の見方、そして、自分の信念などにまで、
少なからず影響を受けているのだと思います。

私はずっと民間企業で働いていましたが、
大企業と中小企業では、やはりやり方や考え方などは違いました。
自分でフリーでカラーやアロマの講師や、個人で講座や
カウンセリングをしていた時に、主婦の方がよく来られましたが、
主婦と、未婚で一線でずっと仕事をしている女性も、
立場が違うので、付き合う人も、物の見方も考え方も違いました。

仕事といっても、銀行員の人はやはり銀行員らしくなりますし、
自営業の人や、事務の仕事の人、営業の人、アパレルの人、
医療関係の仕事の人、モノづくりの人、公務員の人etc...

きっと、仕事柄によっても、それぞれの常識があり、
また自分の身を置く会社によっても、それぞれの考え方など
それを何年もしていくうちに、自分の内面の考え方になることも
多いと思うのです。

一度だけ、国が運営する機関で働いた事がありますが、
ずっと民間企業で働いていた私にとっては、驚きの連続でした。
民間企業では、掃除は皆社員でしていましたが、掃除を外注に頼んでいたり、
コピー用紙も湯水のように使っていたり・・・

働き盛りの30代、40代は定時きっかりに帰り、
仕事が結局少ないからか、だらだらとどうでもいいような事を会議して、
暇だからか、「いじめ」「セクハラ」などが横行していたり、
一日ネットサーフィンして買い物を楽しむおじさんや
民間企業からきた人がまっとうな意見を言って、喝を入れると、
役職についているいい大人なのに、出勤拒否の人が続々と出てくるという、
ちょっと考えられないほどのレベルで、正直本当に驚きました。

まぁそういう所にたっぷり税金は使われているわけで、
私自身、今までした仕事の中で一番楽でしたが、
暇だと人間、周りの人へ興味がわくのか、
毎日本当にお粗末な人間関係の問題が、色んなところで勃発していて、
もうあきれかえるのと、自分のレベルがひっぱり下ろされそうで
期間があったので、その期間が終わった時にすぐ辞めました。

皆が皆そうではないでしょうが、公務員や議員など、
自分が苦労せずとも、お金がもらえるような人たち、
自分の身が痛くもかゆくもないという危機感がない人たちの仕事とは
そんなもので、一般の人たちとの常識とは違ってきても仕方ないのかとも
本当に思ってしまいます。

そう思うと、やはり、自分の付き合う人、そして身を置く環境というものは
自分で選んでいくことも大切なのかと思います。

20代の人は特に影響を受けやすいんだな~と思うことが、
数件、最近ありました。
仕事を変えて、驚くほどに付き合う人も変わり、服装や話し方も変わり
楽しい、楽しいと自分でははしゃいで楽しそうにしていましたが、
客観的にみると、こんな短期間でこんなに変わるのかと、
まっさかさまに落ちて行ってるような人もいます。

反対に勇気をもって、一歩を踏み出し、最初本当に同じ人かと見間違うほど
キラキラを光り輝いていて、嬉しくて泣きそうなほど、
いい方向へ変化することもあります。

どんな人と巡り合うか、どんな場所に身を置けるか、
それで大きく自分の人生だけではなく、自分の生き方も変わってきます。

そのために必要なものは、自分の「命の器」(この言葉は宮本輝さんの言葉です)
だと思います。
大人になれば、色んな悪さをしたり、器用に立ち振る舞うための技を得たり、
ずるがしこくなったり、色んなダークな心などが出てきたりしますが
心根がきれいでいると、困ったときに助けの手が差し伸べられたり、
肩書きや見た目などではなく、自分を高めてくれるような心の持ち主と
出会えたり、自分の才能を引き出せるような場所と巡り合う・・・
そんな気がします。

たくさんほしいと思う人は、エネルギーが分散されてしまいますし、
自分が正しいと思う人は、素直さや正直さが欠けて、批判や非難ばかりなので、
自分の成長できる人や場所は与えられないでしょうし、
自分はいいと自信たっぷりの人ほど、自分の心の目が浅くて、
自分では見えていない部分を他人の目にはたくさん映っていることもあります。

自分の心はどんな心でしょうか?
あなたは、あなたと巡り合いたいと思うような自分でしょうか?
どんな人と巡り合いたいか?

まずはそんな人に自分がなりましょう。
同じ波動は引き寄せあいますから・・・

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自分で創る人生の今の話
仲のいい友達は結構カラッとしていて、あまり自分の人生の事を
人のせいにする人は少なく、人生で紆余曲折もあり、
たくさんその時その時で迷いはしたし、
思い通りにはなっていないことはあるけれど、
「自分の意思決定によって、今がある!!」
というスタンスを持っている人が多いのですが
仕事で知り合った人や、その他の知人と話をしていると、
自分の人生を、「親、ご主人に指図されてこうなった」とか
「ただ流れにのったらこうなった」とか、
自分の人生の舵取りを自分でとっていないように言う人がいます。

そして、主婦の人で、だんなさん以外の彼がいるのも
自分ではなく、自分の夫が悪いと責任転嫁したり、
仕事でも、いつも上司の愚痴、会社の悪口を言って、
自分は正しいけれど、他者が間違っているせいで自分が苦しいと
都合の悪い事はすべて自分以外の他者の責任のように言う人がいます。

でも・・・・
自分の人生の責任は、自分でしか負うこともできず、
どんなきっかけであったとしても、流れだったといっても、
無意識でもその中で選択して決断して行動しているのは自分自身ですからね~。

いくら無意識であっても、そんなつもりなかったとしても、他人のせいにしても、
流れにのっただけと言っても、宇宙の法則は恐ろしいほどに
アウトプットしたエネルギーが、回りまわって、自分の元に返ってきて
インプットされるようになっているように思います。

器用な人はすごいな~と思います。
うまく立ち回れたり、社交辞令が上手で、社交的でという人です。
昔はそういう人に憧れて自分もそうなりたいと思っていました。

でも今は、不器用で、社交辞令が下手で、正直で素直な人が
結構好きだったりします。

私自身、初対面の人や、あまり私の事を知らない人には、
とても社交的で、器用に人生を生きているように思われます。
感性の強い人や、長く付き合っている友達には、
もしかして不器用? 生きるの下手だね~!
もっとうまくやればいいのに!などと言われます。

たまにカチンと腹が立つこともありますが、
自分の根底には、自分にウソをつきたくない、
自分の価値観で測ってみて、みっともないことはしたくない、
恥を知る自分でありたいという気持ちがあるんですよね。

でもこれは、自分がウソをつき、みっともないことをいっぱいして
恥をかきまくっている人生を送ってきているということなんですけどね。
でも実際にはそんなことができるわけないかもしれないけれど、
少しでもそういう風な自分でありたいと日々目指しているわけです。

いっぱい調子にのって、ひっくり返って、
いっぱい悪いエネルギーを出して、それが跳ね返ってきて
いっぱい泣いて、いっぱい辛い思いして、
少しずつ、少しずつ、上を目指している成長過程の途中ですが、
この世を去る時、父のようにカラッと笑って
「お前がどう思おうとるかしらんけど、あー楽しいええ人生じゃった!」
と言いたいと思うのです。

本当に不器用で、口も悪く、おべっかも言えず、自然を愛し、
生涯母だけを愛し、亡くなった父のようには生きれなくて
悪い事や、汚い事や、ずるい事をしたり、自分のために人を傷つけたり
本当に父からしたら、「馬鹿もーん」という位のダメダメな娘だけど、
いつからでも人生は創り直せるという事を信じて、
気づいた時に軌道修正しながら、
最後に笑えるような自分の人生を創っていきたいな~と思います。

あなたは、最後に笑える今を過ごしていますか?

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チョコレートドーナツの話
今日「チョコレートドーナツ」をみてきました。

泣きました。
アランカミングをはじめ、表情が素晴らしい作品でしたし、
最後の熱唱は本当に切なさとともに、胸に響きました。

愛というものを感じた作品です。

愛とは何なのか?を問われて、
この世の正義とは?と考える映画だったともいえます。

家族だから、
所詮他人だから・・・
と、人のつながりの縁を、
それぞれの固定概念で決めつけているところがあります。

家族でも、愛情の薄い関係もあれば、
他人であっても、深く大きな愛情で結ばれていることもあり、
そして、それは年月の時間を超越する縁もあると思いました。

また、自分とは違うものに対して、それを差別するという習性が
人間にはあるのだと思います。

形、型ばかりを重要視し、その中身をみようとしない人もいれば、
型よりも何よりも、その中にあるものを大切にする人もいます。

私はハードよりソフトが大切です。
だから、この世は生きにくい世界だと色んなところで感じます。

愛や心は目に見えません。
やはり目に見えるものや、その人の看板(肩書きなど)がわかりやすく
それを判断材料にして、生きている所が多いのだと思います。

自分の人生の責任を取る覚悟のみをしっかりして生きればいいのでしょうが、
本当に他者の事はわからないのに、自分の価値感で判断したり、
やはり、他者に対して、その外面などで判断していることが多いのだと
とても強く思います。

そうじゃないと否定するのではなく、
そうなんだと自分の中にあるそのことを肯定したうえで、
物事や色んなことを見ていきたいと思います。

色んな人がこの映画を見て、色んな感想があると思いますが、
この世に生まれ、一瞬であっても、他人の事を深く愛することができること。
それはとても幸福で、美しく、自分の魂が輝く事なのだと思います。

愛されることもとても幸せですが、
他者を愛することほど、切なく、美しく、幸せなこともないような気がします。

愛される事が価値があり、他人に承認されたことで安心感を得たりします。

愛される事によって、自分の価値観の評価を得ようとする人の中には、
愛に飢えてむさぼろうとする「乞食」のように見えてしまう人がいます。

愛することによって、自分の価値観をあげることもできるし、
その深い愛や、見返りのない心、愛情を自分が出すことができる時、
自分自身が、その愛を本当に感じて知ることができるのかもしれません。

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愛情の話
小さい頃、兄に「お前は捨て子で、本当はうちの子じゃないんだ。」と
よくいじめられていて、本当の親はどこかにいるのかな?などと
想像していたこともありました。

でも、今思うと、何と幸せな子供時代を過ごすことができたか、
本当に親にも、そして先祖様にも感謝します。

家は築100年を過ぎた藁ぶき屋根、そしてお風呂は薪で炊いていて
そしてトイレはボットントイレ。
もちろん庭には井戸があり、家に入ると大きな土間があり、
冬は恐ろしく寒く、夏は色んな生物と共存共栄の世界でした。

その頃、近所でも、学校の友達の中でもそんな家は少なく、
友達同士で、誰かの家に遊びに行く順番の中からも
気づけば外されていました(苦笑)

広いリビングにソファがあり、友達の部屋はピンクでかわいく
色んなおもちゃやドールハウスがあり、とどめに様式のトイレの
洋風の家に住む友達の家に行った時には、
あーこんな家の子に生まれたかった~と思ったものです。

先祖代々の家で、古い伝統としきたりが色濃く残る我が家で
両親、祖父母と住んでいて、農家だったのでその手伝いもして
自然の中で、自給自足に近い生活を送っていた暮らしは
その当時は「貧乏で最悪」と思っていたのですが、
今から振り返ると、人間としての基礎を作ってくれるには
とてもいい環境だったと思います。

田舎だったので、地域皆で子供を育てるようなところもあり、
学校帰りには皆に声をかけられたり、
自分を知ってる人ばかりで、窮屈と思ってましたが
今から思うと、大切に見守られていたと思います。

未だにお墓詣りに帰って歩いていると、名前を呼ばれます。

その反面、いいも悪いもすぐ噂をされたりもするのですが、
皆、口や頭は悪くても、心根が悪い人は少なかったように思います。
田舎者なので、知識が少なかっただけかもしれませんが、
よく詐欺みたいに、公会堂に人を集めて商品を売る業者が来ると
皆めちゃくちゃ買っていて、いい人たちだな~と(苦笑)思ってました。

また、誰かが困ると、皆で助け合っていた思い出もあります。
(お金以外ですが・・・)

まぁそんな中で、育ったわけで、
今から思うと、皆それぞれが一生懸命生きながら、
他者への思いやりのあるところで育ち、
家族からも愛情を与えられていたわけですが、
私はそれを気づけず不満ばかりを心にため、
足りない、愛が欲しい、と飢えを感じていたように思います。

まぁ、物心ついて頃から学生時代は、父が具合が悪くなったり、
母が祖母のひどいいじめに遭っていて、祖母の性格がひどかったので、
ネガティブなエネルギーが蔓延していた事があり、
そう感じていたのかもしれません。

また、田舎の人ですから、言葉や態度で愛情表現をしないことも
そう感じてしまった原因かもしれません。

でも、一番の原因は、自分の内の愛情が不足していたのだろうと思います。
やはり、人の中にあるものを見るには、自分の内にあるものしか見えません。
きっと、相手がどれだけ愛情を注いでくれていても、
自分にその感覚がなければ、全然愛情を感じられないわけです。

親の愛は、見返りを期待しない愛情です。
(もちろん、人によっては、その愛情という中に、
自分のエゴやコンプレックスを投影していることもあるでしょうが、)

そんな中、父親に育児放棄された5歳の幼児の白骨遺体が発見された事件
などもあり、生んだはいいけれど、親になれない人もいるのだと思います。

最近は育児放棄の事件もよく耳にするようになりました。
劣悪な貧乏な家で生まれ育っても愛情深い善人もいます。
裕福な家に生まれた子供でも、親に愛情を受けずに育った子供は
時には冷淡で猟奇的な犯罪を犯す事もあります。

ここで何が、人間を育てているのかと考えるとやはり「愛情」
なのだろうと思います。

では愛情とは一体なんなんでしょう?
「親だから、子供に対して愛情を持つのは当然。」なわけはありません。
もし自分が虐待を受けて育った場合は、
接し方がわからず同じ行為をすることもあるといいます。
また、過保護に、その子供の事を考えての愛情ではなく、
まるでペットや人形のように溺愛する人もいます。

でも今生きているということは、
それこそが「愛情を受けた証」とも思えます。

色んなエピソードが聞いていないだけであるかもしれず、
愛情を受けた側が見えていなかっただけのこともあるかもしれず、
もし、本当に全然愛情をうけた記憶が全くないという人も
いるかもしれません。

「愛情」を人は欲しがります。
与えてほしいと願います。
本当は自分の内に溢れるほどに、満ち溢れているのだと思います。
それに気づくと、他者の愛にも気づけます。
自分が与えると、与えられます。

そうするうちに、過去の思い出の中に、愛を見いだせることもあるでしょう。
私はそうでした。
愛されていたんだと気づいたことで、その後の人生の生きる力は
とても強くなる。
そんな気がします。

今月は母の命日です。
母の愛に、そしてその母への自分の愛に、感謝です。

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晴天の霹靂の話
晴天の霹靂を見てきました。
このブログでも書いていますが、私は「水曜どうでしょう」が大好きで、
そして「大泉洋」さんが大好きで、
ファンミーティングでマレーシアまで行った事もあります。

この映画、内容を書くとネタバレなので、やめておきますが、
私は泣きました。
生きる意味・・・
人それぞれだと思います。
そこに「愛」というものがあれば、強く大きな力になると思いました。

この映画の「ハート」の部分をすくって、描かれたような
エンディングで流れたミスチルの歌の歌詞をのせます。

「放たれる」
Mr.Children
映画「青天の霹靂」主題歌
作曲:桜井和寿
作詞︰桜井和寿

閉じ込められてた気持ちが 今静かに放たれてゆく
重たく冷たい扉を開けて かすかな光を感じる
諦めかけたいくつかの 夢 希望 憧れ 幸せ
朝顔が空に伸びるみたいに その光をたぐり寄せる

右へ左へ迷いながら その度に蔓を巻き
日の当たる場所に昇りたい あなたもそこに来て・・・

もう一度その温もりにその優しさに包まれて生きたい
払い落としても消えない愛が一つあるの それで強くいられる

ある時はもっと滅茶苦茶に 自分を傷つけたい衝動に
駆られてしまう 誰のせいにも出来ない不運を目の前に
だけどたった今分かったのは 誰もが生きる奇跡
生まれてきた ただそれだけで愛されてる証

カラタチの木の棘のように あらゆるものに尖り自分を守れば
でも今は恐れることは何もないと 強がりじゃなく思える

遥か遠い記憶の中で あなたは手を広げ
抱きしめてくれた まるで大きなものに守られている
そんな安らぎを感じる 今でも・・・

もう二度とその温もりにその優しさに触れないとしても
いつまでも消えない愛が一つあるの それで強くなれる
だからもう恐れることはなにもないの 心は空に今そっと放たれる

読んでいただいてありがとうございます。
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やりたくないこと=天職?の話
好きな仕事をできたら幸せ!!と思う人が多いと思います・・・が、

先日、毎週見ている「ボクらの時代」という番組の中で、
小泉今日子さんが、タモリさんに
「(笑っていいともが)よくこんなに長く続きましたね。」と言うと、
「やりたくなかったからかな~。」
と答えられて、わかると思ったという話をしていました。

自分も芸能界最初は辞めたくて仕方なかったし、
その時一緒に出ていた中井喜一さんも、裏方の仕事をするつもりで
表舞台にまさか自分が出るとは思っていなかったという話をしていて、
そういう人の方が業界で長生きしてるんだよね~と言っていたのです。

目標を持っている人は、燃焼して燃え尽きてしまう。
そんな事も言ってました。

まぁこれはすべての人に当てはまるものではなく、
もちろん目標を持って、それに向けて頑張って達成して
その世界の第一線で活躍されている人もいますし、
「好きこそものの上手なれ」ということわざのように
好きなことがそのまま仕事になっている人もいると思います。

が、好きでもない仕事、やめたくて仕方ないと思っていた仕事も
もしかしたら、続けていってうちに、自分の天職になってた・・・
というものもあるんだな~とつくづく思ったのです。

人の縁もありますが、私は仕事も縁があると思っています。
というか、自分に必要な経験を与えられるもんだと、思っているところもあります。
まぁそれは一つではないので、もちろん選択肢は自分が握っていますし、
それしかないということもなく、手放すとまた与えられるのだとも思っています。

でも、すぐに壁にあたって「やーめた」、
次もまたすぐ自分の思い通りにいかずに「やーめた」では、
同じところをぐるぐる回っているだけで、
変わっても課題の経験をクリアするための出来事が起こり、
それは自分の外側ではなく、自分の内側の問題だったりするわけです。

じっと考えてわかってるつもりのことも、経験してわかる深さは違いますし、
知識も必要ですが、変えがたいこの世での大きなありがたみは
経験をすることができるということだと思うのです。

自分の好きな事を仕事にしたいと思っていても、
実際に仕事になると「楽しい」と思えなくなったり、
その好きな自分の世界は自分の趣味の世界でとっておいて、
仕事は仕事と、ONとOFFをわけた方がいいという人もいます。

私の周りでは、とても仕事ができる人だな~と思う人で
本当仕事めんどくさい。とか、向いてないと思う。という人が多いのです。

でも、仕事が本当にできるのです。
でも見ていて、あれだけすればそりゃめんどくさいだろうな~と思います。
気配りと記憶力、仕事量をこなす時間配分の計画性、
そしてプロ意識の高さ。

周りから見ると、他を寄せ付けず群を抜いてできているのに、
自分では納得していなかったり
いい意味で肩の力を抜きつつも、本当にまじめだったりします。

反対に仕事大好きという人の中には、自分の都合や主張が強く
自分はあまり仕事をせず、その割に自己顕示欲の塊で、
口だけは立派にたち、さも自分は仕事ができ忙しいと言っている人もいます。
それでお金もらえて楽だから、そりゃ仕事好きだろうなと思う人もいます。

営業をしているすごい数字をたたきだす友達が、
本当に売る営業は、ものではなく自分自身だから
売るものが変わっても売れるし、できる人はどこでもできるんだよ。
と言ってましたが、まぁそんなものかもしれないと思いました。

何かの仕事をしたいと願望を持っていたり、夢を持っていることは
とても素晴らしいことだと思います。

でもそれがなかったり、その夢がすぐに手に届きそうにない時には、
自分がやりたいと思わない仕事なども、縁が巡ってきて
自分の手に入ることになったときは、目の前のそのことを
3年くらいは一生懸命してみる。

その経験が自分を磨き、
自分の内から、才能までいかないとしても、不屈の精神とか
あきらめない心とか、勇気とか、失敗を重ねて得た成功とか
色んな経験を得ることで、自分の内にスキルと自信をもたらします。

外的要因ばかりを見てしまいますが、結局は自分の内側の要因が
自分に起こることの大半を占めているようにも思います。

願望の仕事へのこだわりが強くて、絶対これがしたいと思う人は、
その願望の型を作ったうえで、エネルギーを注入しなければ
現実にはならないでしょう。

そのエネルギーは、目の前の事を一生懸命することで創れます。
与えられたことを、不満ばかり言わずにしていることで、
それは、遠ざかっているように思えるかもしれないけれど
近づいていることもあるのかもしれません。

この世に無駄な事はないと思います。

自分の人生の矛先を他者ではなく、自分に向けて見て
与えられたことに、不平不満ばかり並べるのではなく
その時のステージを早く終了させるために、
一生懸命目の前のことをすることで、その経験は
何より自分の血となり肉となり、その後の人生の糧になるのだと思います。

読んでいただいてありがとうございます。
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忍耐と我慢も必要の話
今日、ある社長の話を聞いた。

その話というのは、会社の求人募集に関しての話で、
募集をかけると、多くの人が応募してきてくれるが、
その中から選んで入社しても辞める人が多いのだそうだ。

その会社だけではなく、地元では大手と言われている会社も、
いい人材の確保について苦労しているところが多いという話で
色々話をしていると、異業種であれど、
いい人材には、次の条件が当てはまる人が多いのだそうだ。

その条件とは
①体育会系の部活をしていた。
②田舎で育っている。

皆が皆が、そうとは限らないけれど、
そういう人は、忍耐強く、あきらめず頑張る人が多いのだそうだ。

苦労して入社しても、「こんなにきついと思わなかった」と
すぐ辞めてしまう人がいたり、
また、近道をしようとしたり、効率よく器用に立ち振る舞って
うまいことしようとする人も、すぐ投げ出してしまうのだそうだ。

でも、上の条件だけではないとしても、
やはり、体育会系でも、田舎育ちでも、我慢を強いられることも多いと思う。

体育会系でいえば、先輩後輩の上下関係についてのことを叩き込まれ、
礼儀など厳しく指導され、理不尽なことに耐える力を培い、
そしてたゆまぬ努力を重ねても、勝負に敗退することもあれば、
悔しい思いを経験して、自分との闘いを知ることができる。

それは、田舎育ちでも、不便な地理に住んでいることで、
都会では簡単にできることでも、田舎では時間も労力もかかることは多く、
年寄りなども多く、常識であったり、礼儀などを教えられ、
その中で、理不尽なこともあり、忍耐を学ぶ。

やはり、忍耐や我慢というものも必要なのだと思う。
簡単にできたことと、努力を重ね、なかなかうまくいかず、それでもあきらめず
そして達成できたこととは、同じことでも、自分の内のパワーと学びは違う。

今までの人生を振り返ると、結構苦しかった時の事を思い出す。
その時は、苦しくて辛くて、それでも無我夢中で頑張っていたことが
その後の自分の糧となり、その時の自分がいるという自信にもなっている。

あの時あれだけ頑張れたんだから、今も頑張れるとか、
あの時に比べたら、今の状況は楽!楽!とか、
すごく今は恵まれていて幸せだな~と思えて、
じゃあ頑張ろうと思えたりする。

きっと、逃げ道ばかりをみつけることに、時間と力を注ぎ、
そして、楽に、近道ばかりしようと、うまいこと立ち回ろうとばかりに
心を尽くしている人には、わからないこともある。

目の前の事に対して、一生懸命、その時の自分にやれるだけのことを
やっていると、その時には苦しくて、辛いと思っていても、
それでも一歩でも半歩でも進んでやろうと、努力していると、
時を経た時に、お金で買えない、人からも与えてもらえない、
素晴らしいプレゼントを自分に与えられていることに気づけるのだと思う。

シチュエーションや、その人の握りしめいてる信念の矛先によっても
良し悪しは変わるけれど、
それでも我慢や忍耐の超えたところでの喜びは、大きなものであり、
喜びがなくとも、自分の魂を磨く大きな砥石になっている。

自分で自分を好きになる。
自分に自信をもてる。
ためには、いくら考えても、じっと自分のことを見つめようと悶々とするより
目の前の事に対して無我夢中に努力してみるといいのかもしれない。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
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量より質の話
友人と食事に行く時のお店選びの話をしていた時、
「年齢を重ねると、あまり量を食べれなくなってきたから、
質のいいものを少しづついただきたいわ~」と
ふと、呟いていて・・・

食事もそうだけど、すべてにおいて、そうなってくるのかな~?と
ちょっと思ってしまったのです。

「一年生になったら、一年生になったら
ともだち100人 できるかな・・・・」
という童謡がありますが、
幼い頃はたくさんのともだちを欲し、
それ以降の学生時代も、友達が多い=○みたいな価値観があり、
その後、就職、結婚、女性なら出産、育児・・・の過程においても
友達が多い人、知り合いが多い人が○のような価値観が
どこかにあるような気がするのです。

だからこそfacebookやtwitterなどのSNSも、人気があるのでしょうし、
LINEなども、いろんなコミュニティに参加している人もいると思います。
(ちなみに私は未だガラケーで、何もしていませんが・・・(苦笑))

知人の中には、その登録数を誇る人や、知り合いが多いことを自慢する人、
そして誰かをけなすときに
「あの人、あまり友達いないのよ。」
などという事も聞いたことがあります。

年齢とともに、どんどんと自分の意思や価値観などが、定まってきます。
もちろん社交的でコミュニケーション能力が高く、たくさんの人の中で
輝けるような人もいると思いますが、そうでない人もいるわけです。

知人で、社交的で知り合いが多いといつも吹聴している人の中には
ただただ、とてもさみしがり屋で、知り合って間もなく、
私の側ではただの「お知り合い」という関係性と思っていると、
「私しか何でも話せる友達いないから、ずっと仲良くしようね。」と
親友のような距離感にまで迫っていて焦ったことがあります。
というか、何でも話せない人も友達って・・・??と思った記憶もあります。

でも、やはり食事も量より質と思うように、自分の身の回りのものにおいても
私は元々「キャパ」が狭いからかもしれませんが、
自分にとって「心地いいもの」「疲れないもの」「楽しいもの」「寛げるもの」と
いうように、量より質でなんでも選ぶようになってきた気がします。

一人という「孤独」というものに対して、
決して嫌なものではなく、仲良くなったという感じもありますし、
ある意味「孤独」になりたくても、深く広い意味では
自分という存在は決して一人になりたくてもなれないわけですし、
気の合わない疲れる人と、時間を共有するのであれば、
自分のエネルギーの中、一人でいた方がいいと思うようにもなりました。

以前は、やはり寂しさから、誰かれかまわず、かまってほしいというような気持ちや
皆がそれぞれ友達と過ごしている時に、一人でいることが、
他者から劣っているような気持ちになったり、
また友達が多いと色んなメリットがあると、友達を損得勘定で考えていたところや、
自分を楽しませたり、癒したりするためには、
他者が必要と思っていたところもあります。

他者からしてもらおう。自分に得なことを与えてもらおうとばかり思っていると、
鏡のように、それが自分に跳ね返り、自分の内側が枯渇してしまいます。

まぁそんな薄い付き合いの友達は、こちらの調子のいい時はまぶりつきますが、
下降気味になったり、不調になると自然に消えてしまいますが・・・(苦笑)

皆でいるときに楽しいのは、他者が楽しませてくれているのではなく
自分自身が楽しんでいるわけで、同じシチュエーションでも、
自分の心次第で、全然楽しくない苦痛にもなるわけです。

一人の時間の中で、自分の好きなことを時間を忘れてしているときは
とても楽しいうえに、癒しの時間にもなるわけです。

知人で社交的で、人間が好きなんだな~と思うような人が先日、
「友達なんて数いらないよね。
ほんの数人、自分の本音を語り合える人がいたら、それでいいよね。」
と言っていて、何か嫌な思いをしたのかもしれませんが、
以前から私もその意見なので、とても共感しました。

でも、意外に周りを見ると、数を欲しがる傾向にあるな~と思います。
そしてスケジュール帳もパンパンに予定を埋めておきたいというような人もいます。

人それぞれ考え方はあるでしょうし、多くの友人と深いお付き合いやご縁を結ぶ
そんな人もいるのだと思います。

あなたはどうですか?
あなたにとって、友達とはなんですか?
たくさん必要な人は、なぜですか?

自問自答で、自分のいつもは見過ごしている心のひとかけらを見つけることが
できるかもしれません。

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深いご縁の話
高松宮家の次女・典子さまと、出雲大社禰宜・祭務部長を務める千家国麿さんの
御婚約の報道がされています。

神話によると、
イザナギ・イザナミの子が天照大御神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)。
素戔嗚尊の子孫にあたるのが出雲大社に祀られている大国主命(オオクニヌシノミコト)
代々出雲大社の祭祀を担ってきた出雲国造家の祖となるのが
天照大御神の二男に当たる天穂日神(アメノホヒノカミ)。
天照大御神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の孫に当たるのが
初代天皇と伝えられる神武天皇。

出雲国造(出雲大社宮司)を代々つとめる千家家はアメノホヒの子孫で、
家系としてはたぶん天皇家に次いで古いということは、
日本でいちばん古い家系と2番めに古い家系の縁組ということになるわけです。

「私どもの家の初代が皇祖天照大神の次男と伝えられております。
2000年を超える時を経て、今こうして今日という日を迎えたということに
深いご縁を感じております。」と婚約内定会見でおっしゃっていましたが、
本当にこの機での、このご縁は感じ入るものがあります。

時は、60年ぶりとなる出雲大社の平成の大遷宮「本殿遷座祭」と、
20年に1度の伊勢神宮の式年遷宮を、2013年の昨年無事終え
新たな年の今年、このご縁が結ばれたというのが、
やはり新たな時代の始まりのように感じられる気がするのです。

変化はいつもあるものですが、目に見えないエネルギーやパワー
そして変化が、どんどんと目に見える所へ現れている。
それも大きな変化が今起こっているような気がします。

時代とともに、常識や考え方、また教育などによってもそれは変わり、
それを色濃く自分の中での礎になることもままありますが、
ここだけは譲れないとか、人として生きる自分なりの美徳など
大切に守るべきものもありますが、
柔軟な心や、受け入れていくという受容力も、必要になっていると思います。

時代の速度が速まっているような感覚があるなかで、
ずっとその底にあり、短期ではなく長期で流れ続いているもの
そんなものが、日本人の中には受け継がれていて、
その軸を中心に、新鮮でフレッシュな感覚を持ち続けていくというのが
大切なような気がします。

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