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色とこころの勉強を通して、わたしが思う「こころ」がテーマのブログ。
私の幸せの話
最近、私はとても幸せを実感します。

健康に過ごしています。
愛する彼も元気で、そして愛猫も20歳という年と思えないほど元気です。
そして仕事があり、今までの中で一番働いているという実感があります。
数は多くないけれど、話の通じる友がいます。

昔は、今よりも未来ばかりに自分を置いていました。
そして今に足りないものを探し、それが未来手に入ると幸せになると
思い込み、幸せになりたいと願うばかりしていました。

毎日の平凡な生活が、つまらなく思え、
非日常の旅行をしまくり、刺激を求め色々な所に出歩いたりしていました。
旅行に行った先で、もう次の旅行先をどこに行こうかと考えていることも(苦笑)

日々の生活の中でも、外食で色んな店を食べ歩きしたり、
お酒を量もたくさんいただいたり、友達と馬鹿騒ぎしたりもしていました。
そして、質より量とばかりに、たくさんの人と交流を持ち、
知り合いが多いことを誇っていたり、
内容よりも、スケジュールがたくさん入っていることを嬉しく思ってました。

自分が本当に欲しいのかどうかさえもわからないまま、
皆が持っているから、流行だからと、
色んな「物」を手に入れたい欲求が強く、
実際に手に入れて喜ぶのもつかの間、
次にまた欲しいものがでてくるという、キリのない状態でした。

やはり、両親の死は私にとっては大きな転換期だったのでしょう。
また、自分の病気で動けなくなったことも大きかったのかもしれません。

何よりも、そんな時に思い出す「幸せな時間」は、
当たり前と思っていた、毎日の平凡な時でした。

例えば、休日のお昼に、私が作った昼食を家族で食べながら、
テレビを見ながら、「のど自慢」のカネが何個なるかと
予想しながら話している情景とか・・・

ゴールデンレトリバーを飼っていて、夏はクーラーの部屋に入れていて、
家族がそこに集まり、テレビを見ている人もいれば、昼寝している人もいれば
犬と戯れているひともいるという、変哲もないまったりした情景とか・・・・

非日常な生活でもなければ、憧れ願っていた風景でもない、
食事も御馳走でもない、日々の食卓に並ぶ普通のごはんで、
田舎の家で、そんなおしゃれなわけでもない親と
普段着のままで過ごすその時間が、私の幸せ時間だったのです。

人によって、その幸せ時間は違うと思います。

両親を失ってから、私の幸せな情景はそれになりましたが、
それまでの人生での、一番印象的な時と情景は、
モルディブでの、海の中にいる時と、
島から見た、目の前に広がる空と海だけの情景でした
夜、空一面に広がる星空を見たその時は、
心から生まれてよかったと、天に思わず感謝しましたから。

今は、非日常ではなく、毎日の当たり前と思うような
本当は当たり前ではない、有難い日常に幸せを感じます。
その毎日が連なって、人生になっていき、
同じようであっても同じ日はありません。

せっかくのその時に、自分を置かず、未来や過去にとび、
はたまた、自分から抜け出し、相手はどう思っているかなど
わからない事を延々と思うことは、そこにいる自分が
抜け殻になっている状態なのかもしれません。

幸せは探すものでも、みつけるものでもなく、
ただ感じることなのかもしれません。
抜け殻だと幸せがそこにあっても、感じれません。

人は失くして初めて気づくことがよくありますが、
その前にそこに自分を置き、その現実の中で
ないものを探すのではなく、あるものを探し、
そして何より自分の「良心」にそって、生きていると、
一時は嫌な思いや、損をするようなことになっても、
気持ちよく自分が生きれて、心が澄み、
幸せを感じやすい心になるような気がします。

ずるい事をしたり、誰かに対して嫌な事をしたり、
嫌な事を言ったり、etc....
誰も見ていなくても、だれにもばれなくても、
自分が知っています。
その時は何とも思っていなくても、無意識の中にも
自分の良心に反することをしていると、
必ずその報いを自分が受けることになります。

以前の方が、周りの人から見たら「幸せ」のように見えるかもしれませんが、
自分の中では、人にどう思われようが、自分に正直に生き、
自分なりに「アタリマエ」と思わず、
すべてを有難いと感じることができることで、幸せを感じることができます。

金儲けが下手で、田舎のおやじで、学歴がなく、口が悪く不器用で
山と田畑を愛し、働き者で、年寄りや子供に優しい父を、
ずっと馬鹿にし続けていた私に対して、余命を告げられたお父さんが
「お前はどう思うとるかしらんけど、わしの人生はそりゃーええ人生じゃったんで~。
そりゃーほんまに面白い、ええ人生じゃ。」
と言った言葉が、最近実感できるようになってきました。

自分の人生の幸せは、他者が決めるものではなく、自分が決めるもので、
自分以外の人皆が「不幸」と思ったところで、
自分が「幸せ」と実感したら「幸せ」なのです。

愚痴や悪口も言わず真面目で、「家族のため」と良妻賢母であった母親が、
ずっと吐き出さなかった恨みつらみを晩年掃出し、
自分がしたかったわけでもなく、どうみられるかを気にして
自分を殺して送ってきた人生を「失敗した」と言い、
それをすべて家族のせいにして
「あんたなんか産まなきゃよかった」
「結婚したのが間違いだった」と、あてつけのように自殺未遂をして
家族に罵声を浴びせてくれなかったら、気づけなかったことも多くあります。

自分の人生の幸せを、他者に決めてもらおうと、
どう見られているかを気にして、心を病んでしまった母親と、
他人にどう思われようが、自分は幸せだったと言い切った父親と、
正反対の生きざま、死にざまを見せてくれた両親に本当に感謝です。

そして私は今幸せです。
当たり前の毎日が、本当に幸せです。
見栄っぱりの知人の中に、私の人生を「かわいそう」と言う人がいましたが、
毎日、一日の終わりに心から感謝するほど、幸せを感じています。
幸せは外にはなく、自分の内から生まれるものであり、
他人に決めてもらうものではなく、自分が感じるものと、実感しています。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。


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自分の心の安心感は自分がもつの話
「ぶどうのなみだ」を見てきました。
友達と一緒に見て、終わるとともにパンを食べに行きました。

その友達と、先日ブログにも書いた自殺した人の話になり、
色々苦労も重ねてきたその友達は

「自分の事しか考えていない、自分勝手なずるい人。
少しでも、自分が死んだあとの、残された子供や家族の事を想像したら、できないよ。
辛くて死にたいと思う事はあるけど、実際にしてしまう人との間には
大きな大きな差があるよ。」

と言ってました。
その友達自身は、幼少期に病気でお父さんが亡くなり、
女手一つでお母さんに姉妹3人育ててもらい、
成人になって、結婚したものの、
その後お父さんが亡くなった病気と同じ病気を患い、
ある日一方的に夫から離婚を言われ、離婚し・・・
というような、色々と苦労も多い人生を送ってきている人です。

だからこそ、言葉にも重みがあり、その通りと思いながらも、
マイナススパイラルに陥り、視野が狭くなり
自分の感情に流されて、その苦しさのループにはまり、抜け出せなくなり、
周りの励ましも温かさも感じることができず、絶望を感じてしまい、
突発的に「死」を選んでしまう、感情に翻弄される気持ちも少しは理解できます。

でも、やはり自分を殺すのも「殺人」です。
その友達が言うように、考えるのと実際にするのには
大きな大きな壁があると思います。

原因はどうであれ、やはり自分の命の尊さを軽んじてはいけません。
此の世に生まれ、辛いことがないと思う人はいません。
寂しさを感じない人もいません。
度合が違い、自分が世界で一番苦しみ、辛いと思いがちですが、
俯瞰から自分を見たり、周りを見渡すと、そうでもないことに気づきます。

日本は豊かになって、自殺者の人数が増えているということは、
恵まれていないから、自殺するわけではないわけです。

先日テレビで「ママカースト」の事を放送していました。
(現代の日本において母親であることを共通とした友達付き合い(ママ友)において
見られる序列のことを身分制度になぞらえて呼んだ表現)
そういう豊かになったからこその、新たな苦しみが生まれているのかもしれません。

実際に友達から聞いたその自殺した人も、環境だけを聞けば、
ご両親も健在で、だんなさんから愛されていて、子供にも恵まれ
私にはないものをすべて持っている人です。

ご自分のアトピーや、子供のアレルギーや病気なども悩みも話していたそうですが、
一番のその人の悩みは、ママ友の中になじめない、
仕事に行っても、どこでも自分が嫌われてしまう、
私って皆ができることができない人間だから、だめなんよ。
というような自分の事をとても悩んでいたと聞きました。

私の「鬱病」で死にたいと自殺未遂していた母親も、同じように
他人に自分が認められていない、好かれていない、嫌われている、
自分ができないから、いなくなった方がいい!
と他人から見て自分が承認されていない事をいつも言っていました。

子供が成人して、介護していた祖父母が手を離れ、
金銭的にも時間的にも余裕が出て、これからという時期になって
おかしくなりました。

以前カウンセリングしていた時も、金銭的、時間的に余裕がある人の方が
悩みを抱え、通われていた気がします。

その人たちの傾向は、皆に好かれたい、認められたい、という承認欲求が強いのと
周りと比較して、「勝ちたい」「上にいきたい」と思う傾向が強かった気がします。
そして、きりがない欲求を持ち、上ばかり見るので「足りない」と飢餓感を持ち、
自分の思い通りに、周りが自分を認めたり褒めたりすることはないですから、
他人の評価を大切にしているうちは、ずっと自信喪失と恐怖がつきまといます。

そして「むなしさ」や「寂しさ」を感じ、それを認めることが怖くて、
誰でもいいから一緒にいてほしいと、人を求め、
予定を入れてスケジュールをいっぱいにして、外へ外へと動き回り、
色んな所に行き、色んな物を手に入れ、物や予定、人を自分の周囲に置いても
自分の心は満たされることはなく、もっと「寂しさ」を感じたり・・・

外に幸せや、心の安定を求めている人は、それらを実感することはありません。
すればするほど、自分の内と離れていき、どんどん不安定になり、
満たされず、寂しさや虚しさを感じ、自分も他人も信じれなくなることにもなりかねません。

苦しみや辛さなどの困難を乗り越えた人の方が、カラッと明るい人が多いですが、
そういう人のことを「強い人」という人がいます。

元々強い人なんているんでしょうか?
思いがけない、試練が訪れた時、悲しみ、苦しみ、転び、間違え、自信喪失に陥り、
苦しみぬいて、涙が枯れるまで泣いたり、落ち込み、どん底に落ちることで、
自分のまとっている「我」や、不必要な「見栄」や「欲」をこそげ落とされ、
その後シンプルに戻り、そして自分なりの真実を見つけ、賢くなるんだと思います。

無駄な経験はないと言いますが、それは自分がその経験をどう捉え、
どのように自分の内に消化吸収させるかによると思います。
また、その時に終了!させてしまうと分からないけれど、
後後になって、あの経験があったからこそ、こうなった!という
大きな流れの一部として見たときに、初めて意味がわかることもあります。

自分の人生の主人公は自分であり、その舵をとるのは自分です。
他人にゆだねていると、どこに行くかもわからないまま、不安定になり
沈没する危険が多いということです。

周りに好かれたいというのは、決して謙虚なことではなく
自分が相手をコントロールしたいという「傲慢」な行為でもあります。
周りと比較して、マウンティングしているうちは、
人間ではなく、動物に自分を貶めていることです。

相手を見る時には、自分の鏡としてみましょう。
そこで考えることは、相手ではなく自分のことです。
他者に承認されたいと思うのではなく、
自分の心の善悪で判断して、それに沿う自分を承認していきましょう。
物や他人を周囲に置くことを成功や安らぎだと勘違いをせずに、
自分の「心の安心感」を持つため、交友関係を選択したり、
自分自身が心地よく安心感を実感できるよう、精一杯頑張りましょう。

与えてもらおうとばかり思うから辛くなるのです。
与えてもらいたいことは、自分から与えていきましょう。
温かい言葉が欲しければ、自分が相手に伝えましょう。
好かれたいなら、自分が好きになりましょう。
安心感は誰かがくれるものではありません。自分がもつものです。

とりあえず、与えられることではなく、与えることを主に置くと
「情けは人にためならず」の意味が実感できると思います。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。


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自分を生かすことは他人を活かす話
今日、数か月ぶりに会う友達の家に遊びに行っていたのですが、

元気がなく話を聞くと、
以前から仲良くしていたご主人の幼馴染の夫妻がいて、
今月一緒に鍋をした、その4日後に、奥さんが亡くなったのだそうです。

奥さんはその日実家に帰っていて、お母さんが買い物に行き、
帰ってきた時には、すでに冷たくなっていたとのことで、
死因を言わず、事故という事で家族葬をしたのだそうですが、
どうやら自殺だったという話なのです。

元々、自分のアトピーのコンプレックス、仕事やママ友とも人間関係
子供のアレルギーや、病気の事などで悩んでいて、
最近引越しをして、新しい住まいが当人は何だか嫌で仕方なくて、
自分の実家で同居をさせてほしいと、両親に頼んで断られた
という経緯が最近あったのだそうです。

仲が良かった友達夫婦は、お葬儀に出席したのだそうですが、
ご主人は「バカ亭主の俺のせいです。」とやつれ切り、
ご両親、特にお母さんは
「全部私のせいです。気づいてやれなかった私が悪いんです。」
と、二人とも大きな罪悪感に苛まれ、
見るのも辛いし、声をかけるのも憚られたという状態だったそうです。

その友達の周りの友達も皆、
「何か自分にできたことがあったのではないか?」
と、皆それぞれが自分を責め、後悔の念に苦しんでいるとのことで、
本当に皆優しい好い人たちだな~と思いながら、
「死」を考えさせられました。

自分の命は自分のものだから、どうしようと自分の勝手!
という思いが、誰もがどこかにあると思いますが、
自分の命は皆のものなんだな~!
とつくづく思ってしまいました。

自分の為だけでなく、周りの愛する人たちの為に
自分は生き続ける、その責任があるのだと思ったのです。

1人の死に対して、何人もの人が悲しみはもちろん、自分を責め、
人によっては大きな十字架を一生背負って生きることになります。
残された人の心の中には、後悔が生まれ、罪悪感に変わります。
そして、苦しみます。

ちょうど、その亡くなった人は厄年で、今年で終わる年だったそうです。

振り返って自分の厄年を思い出すと、
自分の病気、家族の病気、お金の問題、仕事の問題、人間関係、
次から次へと試練が訪れ、頑張っても頑張っても、
すべてが悪い結果になり、八方塞りとはこのことかと思うほど、
何をしてもダメなので、自信喪失にもなるし、
自分の無力さを感じ、自分が価値も何もないと思え、
絶望にも似た心境になったものです。

今まで自分が犯した業が返ってきているとも思い、
毎日「すみません」と反省したりもしました。

これでもか!これでもか!という位に試練が訪れるので、
その頃の口癖は「絶対負けない」だったと思いますが、
すっかり負けてしまい(苦笑)、私は死ぬ勇気もなかったので、
「仕方ない。どうあがこうが、現実を全て受け入れて生きていくしかない。」
と自分の運命と勝負を挑み闘うことをやめたような気がします。

我が強い私は、20代までは「自分がしたい」と思うことは
それができるまでしたり、したいと思ったことは無理くりにもしたりと
ある意味、自分の思い通りにできていたことが多い人生だったのですが、
その厄年の時に、すべて思い通りにいかず、
無理くりしようとすればするほど、逆の方向にいき苦しくなり、
今までやってきた自分の生き方を、否定されて、全て見直すしかない
鼻っ柱をポッキリと折られるような期間だったような気がします。

家族であれば、自分の思い通りにコントロールできるという幻想も
その時にきれいに消え去りました。
自分の思い通りになんか、一切いかないという経験は
全て否定され、自分の無力と自信喪失を思い知らされ、自分が空っぽになり、
どうすればいいのか全くわからないという状態になりました。

自我が強い私にはこれ位しないと、我が手放せなかったのかもしれませんが、
その時は、本当に毎日毎日辛くて辛くて、本当によく泣いていました。

そんな時、地元の人気の情報誌の特集で「不幸自慢特集」があり、
大賞になっているのが、私の境遇とよく似ていて、同じような人がいると思ったら、
今日会った友達が私の事を投稿していたという事もありました(苦笑)

でも、そこで終わりではなく、生きていたら、その経験が糧になり、
時が過ぎた今は思い出の一つとして笑えたりもするものなのです。
その経験があったからこそ、色んなことに気づけたり、見直せたり、
自分が握りしめていた必要のないものを手放せたし、
それがその後の人生に大いに役立ち、
その経験があったからこそ幸せを感じることが増えました。

これを書いていたら、昔あった
[AC+CM]公共広告機構+屋上の少女
のCMを思い出しました。

生きていると、辛い、悲しい思いを体験することもあるけれど、
そこで終わりにしないと、笑える日が必ず来ると思います。

今日、友達は近しい人を失った悲しみの話をしていたのだけど、
私はその話を聞いて、皆の愛や優しさを感じてしまい、
此の世には愛情があふれているんだな~
そんな悪い世界でもないんだな~と思ってしまったのです。

気づこうとしなければ、普段はわからなかったり、
そういう大きな出来事が起こった時に、わかったりするけど、
こんなにあふれる愛があったことを見て、亡くなったその人こそ
自分を殺したことに、大きな後悔をしているだろうなと思ってしまいました。

生きることは大変な事はあるけど、決して悪い事ばかりではないし、
その時に喜怒哀楽の怒や哀の感情が生まれたとしても、
時を経た時に、その経験があったからこそ、
喜怒哀楽の喜や楽の感情が深く強く感じられる体験ができるわけで、
そこで「終わり」ではなく、ずっと続くことで
予想だにしない、色んな自分物語につながるんだと思います。
そして、楽しいだけの人生もないように、辛いだけの人生もないと私は思います。

自分を生かすことは、他人を活かすことにもつながると実感した日でした。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。


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自分の真実の答えを知るのは自分だけの話
10月も、気が付けばもう15日。
台風も過ぎ去り、気温も下がって、すっかり秋めいてきました。

寒がりの愛猫にも、寒いと文句がひどいので、フリースの服を着せました。
これから、どんどん寒くなるのだと思うと、
寒いのが苦手な私としては、冬は辛いですが、
辛いからこそ、あったかいごはんやお布団は至福を感じることができます。

最近、よく思うのが、言葉が通じない人がいるな~ということです。
同世代にもいますし、年齢だけでもありませんが、
年を重ねていても、内面的に幼稚な人だな~という人がいます。

肉体の年齢と、精神年齢が比例している人もいれば、
色んな出来事や経験があっても、それを自分の内側に反映させず
全てを無駄にして、一切学ばず、気づかず、糧にもせず、
以前よりももっとひどく、「かまってちゃん」になったり、
承認欲求が強くなり、自己主張ばかりが強くなり、
相手から求めようとばかりしたり、依存が強くなる人がいます。

やはり、同じ年であったり、当時は付き合いがあっても、
時の流れとともに、小さな差がどんどん大きくなり、
話が通じなくなるということはあるものです。

何を握りしめているかによって、やはり大きな差がでてくるのでしょう。
自分自身の心か、周りからの評価か、ということもあるでしょう。

感謝の気持ちか、自尊心か、見栄か、虚栄心か、あるいは劣等感か、
自分の責任として受け入れるか、相手のせいにして自分を守るか、
外見や型を大切にするか、自分の内面と中身を重要とするか、
誰かの役立ちたいと思うか、自分の為に他人を利用したいと思うか、
きっと、同じ出来事や同じ状況に陥った時にも、
また見た目には同じ行動をしていても、
きっとその人が握りしめている思いによって、
それは全く違うことに、その人にとってはなるのだと思います。

言葉も同じ言葉であっても
自分の為か、相手の為かというその人の思いによって
全く違うことにつながります。

若い時から、とても外見が美しく、それを誇っていた人の中には、
年を重ねても、その外見の部分ばかりに執着して、
中身が本当に幼く、驚くような人がいます。

若い時には、外見にばかり目が行き、内面が未熟だった人が
年を重ねて、年相応に内面が熟していくと、
若い時のように、外見の美しさだけで、憧れたり魅了されることは減り
いくら外見が美しくても、内面的に幼稚な人には魅力を感じなくなるものです。

その時、その時の年齢だからこその美しさというものはあると思います。
見た目も、年を重ねるとともに、ある程度は衰えていくこともあります。
その代わりに、内からの魅力が、顔に映し出されていきます。
若い人と張り合うことなく、その時の年齢の魅力はあります。

自分の問題を、人に転嫁して責めたり、
「~のため」という言葉でごまかして、
自分がしない事の責任を相手のせいにしたり、
本当の自分の問題には目を向けず、自分をごまかし
見栄や虚栄心によって、満たそうとしてみたり・・・

誰もが、そういうことはするものです。
認めることが怖かったり、自分の弱さ(と思っている)ことに
向き合うことを避け続けていることもあります。

でも、蛇が脱皮するように、
季節が巡り、変化するように、
自分も無意識の内にも、日々変化しているものです。

意識して、自分を見つめなおしたり、
誰かのせいにしていたり、誰かに怒りをもっていることが
もしかしたら、相手ではなく、自分の問題と気づき、
それを解決することで、すべてがクリアになることもあります。

自分の問題は、自分でしか見つけられなかったり、
だれかに、解決してもらいたいと思っても、
やはり解決できるのは自分自身であったりします。

ここで「気付けた」と思ったら終わりではなく、
階段を一段あがっただけで、
またそこで、何か学んだり気づくことが起こります。

全ての経験に、目をつぶり、それをすべて相手のせいにしたり
自分は悪くない、自分の責任ではないと、自己擁護をしていても
それは自分を守っているようで、実際にはすべての経験を
捨て去っているような、無駄にしていることにもなります。

この秋の夜長に、自分の真実の答えを
自分の人生の中から紐解いてみると、見出せるかもしれません。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。


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大切なことは目に見えない話
10月突入!!!
ってもう何日も過ぎてしまいまいしたが・・・

月末月初は毎月忙しく、ちょっとブログが空いてしまいます。

さてさて、サン=テグジュペリの星の王子様の
「大切な事は目に見えないんだよ」
のセリフが使われているCMが流れていますよね。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ」
心で物事を見るということは、とても難しいことでもあります。

でも大切なこと、かんじんな事は、
物や物事に映し出されていることももちろんありますが、
やはり、目に見えないことが多いように思います。

人によって、考え方や感じ方などが違いますから、
送受信がうまくいかないと、伝えたいことが歪んで伝わったり、
思いを全然違う意味に受け取ったりということもあります。

言葉という「ツール」もありますが、
それは便利なツールでもある面、
言葉にすべて映し出してしまうことはできないのが現実です。

そして、何より、人は目に見えるものを欲しがるように見えても、
本当は目に見えないものを、大切と思っているということです。

例えば、恋愛中は相手の愛を求めます。
人によっては、試すようなことを重ねて、その愛を確かめようとしたり、
人によっては、その愛情を目に見える形にしてほしいと思ったり、
その愛を言葉や自分の五感でわかる形にして伝えてほしいと思います。

そのように、人の思いは見えません。
また、目に見える現実だけを私たちは見て
その現実に振り回されているような錯覚の中で生きていますが、
きっとこの見えている現実も半分、見えていないことが半分
そんな気がします。

昼と夜があるように、
身体と心があるように、
身に見える世界と、目に見えない世界も
その2つが合わさって一つなのだろうと思います。

田舎のおばあちゃんに、父が亡くなった時に
「なんでかな~。ええ事がある前には悪い事があるもんじゃ。」
と言われた事があります。
その時は、その言葉そのものよりも、
私を思いやって私のために涙を流しながら慰めてくれる、
その気持ちがうれしくて泣いてしましたが、この言葉その通りだと思います。

悪い事をそれで終わらさず、気づきを得たり、自分の糧にしたり、
しっかり経験値として、その後役立てるという人もいるのだと思いますが、
やはり悪い事=浄化となって、その浄化が終わると、
雨上がりの空気がきれいなように、自分の業が晴れた時
やはり、すっきりとした空気のように、澄んだ状態になるのだと思います。
その波長に応じて、出来事が起こり、出会いがあるような気がします。

また、私たちの現実は、ホログラフィーで映し出された世界なだけであり、
その出力先の私たちの霊の部分の世界で、色んなことが先行して決まり、
それが映し出されているということを聞いたことがあります。
まぁ精神世界のような本には、よく書いていることですが、
私はそうだろうと思っています。

その時はとても大変で苦痛で仕方なかったような思い出もありますが、
それがあったからこそ、気づけたということや、
自分の想像して行動していた以上の事が、良くも悪くも起こるのは、
自分の目に見えない溜めていることが、因果応報という形で
目に見える状態になっているという現実として現れるということもあります。

そう思うと、目に見えない所では、人類皆が一つであるということで
目に見える世界で、色々差別したり、嫌っているところも、自分の一部であり、
また、病気や苦難を強いられている人は、自分の代わりのその役を
請け負ってくれているともいえるのかもしれません。

何もできない、自分には何の力もないと思う人も多いでしょう。
先日の御嶽山の噴火の報道を見ていても、自然の力の前に
人間の非力さを感じずにはいられませんでした。

それでも、目に見えない力というものはあります。
自分が体験していなくても、同じように痛みを感じたり、
祈ることも、目には見えないけれど、大切なことです。

御嶽山で被害に遭われた方々、また御親族の皆様、
心より、ご冥福を祈るとともに、お見舞い申し上げます。

読んでいただいてありがとうございます。
生かしていただいてありがとうございます。
あなたとの出会いにありがとうございます。


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